河内長野市観光協会

高野街道

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
十里から九里地図

太神宮常夜燈・宝篋印塔(西国三十三度巡礼満願供養塔)

十里石を超えて、坂道を下り、四つ辻を右折して天野橋を渡ると、安永5年(1776年)造立の太神宮常夜燈と、高さ約2.5メートルほどの宝篋印塔が見えてきます。この宝篋印塔には「西国三十三度巡礼満願供養塔」と刻まれていますが、安永8年(1779年)に自明という行者が満願となったことを記念して建てられたものです。その昔、地域の住民から依頼をうけて、西国三十三箇所を1年間に3回、11年間続けて、33回廻るという職業的な行者(三十三度行者)がいて、それを終えると満願といって、供養塔を建てる習わしがありました。当時の大阪庶民の信仰心の篤さがよくわかる立派な宝篋印塔です。

太神宮常夜燈

道標

太神宮常夜燈・宝篋印塔と同じ場所に建てられているのが「右 上神谷妙見山 二十七丁」と刻まれた道標で、上神谷妙見山というのは堺市南区富蔵にある感応寺のことです。感応寺は大化元年(645年)に唐僧・法道仙人が北極星の霊示を受けて、妙見大菩薩の尊像を安置したのが起こりという古刹です。江戸時代の鞠つき唄には、「一に生駒の聖天さん、二に上神谷の妙見さん、三に讃岐の金刀比羅さん」と歌われ、大阪三大妙見(上神谷、能勢、交野)の1つとして大勢の信者が参拝しました。

道標

松林寺

西国三十三度巡礼満願供養塔を越えて、松ヶ丘中町に入ると見えてくるのが松林寺です。享保年間(1716〜1735)に、摂津国住吉村の光明院諦空法印が著した「住吉高野往来」には、「四津の坂 登りて老の 跡見れば 松林寺に鳴 入相の鐘」(いりあいの鐘とは夕方に打つ鐘のことです)と歌われていて、高野参詣の信者に、その晩鐘が親しまれていたことが記載されています。河内長野市の指定文化財になっている「紙本著色 種字両界曼荼羅図」は慧忍上人の依頼で、延命寺(河内長野市神ガ丘)の淨厳上人が貞享5年(1688)に描いたものです。

松林寺

晴明塚

堺市の大小路筋では「晴明辻」というのがありましたが、こちらは「晴明塚」です。平安時代に活躍した陰陽師の安倍晴明が所蔵していた天文学の書物を埋めたので「晴明塚」と言われています。安部晴明は、和泉国信太の森の白狐「葛の葉」を母にして生まれたという伝承があって、安部晴明の父・安部保名と母・葛の葉の悲恋物語は、講談や芝居となって大坂庶民のあいだで大いに流行しました。高野街道沿いに、晴明ゆかりの土地や伝説、物語が見られるのも、こうした庶民信仰の表れといえます。

清明塚

原町の旧阿弥陀寺石造物群

十三仏板碑2基、地蔵菩薩像、観音菩薩像で構成されています。かつてこの地の南側に位置していた、阿弥陀寺(20世紀初めに廃寺)の境内にあったものと伝えられています。十三仏板碑には、寛永11年(1634年)に原町の庄屋・俵屋が施主となって、両親、隣組の住人らの供養のために建立したことが記されていますが、とくに右奥の板碑は、像高228センチと河内長野市最大級の規模で、河内長野市の有形民俗文化財に指定されています。

行者堂・九里石

原町、古野町を越えて、310号線を渡ると、行者堂があり、そこに九里石が立っています。九里石の横には「左 さかい四里 大坂七里 右 中本山極楽寺」と、堺や大坂への里数が示されている道標もあります。極楽寺というのは「錦渓山 極楽寺」(河内長野市古野町)のことで、聖徳太子が推古天皇の病気平癒を願って、杉の根元に湧く霊水を汲んで差し上げるとたちまち平癒したので、太子が薬師如来を刻んで本尊としたのが極楽寺のはじまりとされています。一度、廃れてしまいましたが元享元年(1321年)に融通念仏宗の法明上人によって再興されました。高野山を目指して、ただ歩くだけではなく、時には、脇道に逸れて、こうした周辺の民間信仰の跡地を訪ねるのも、高野街道の1つの楽しみ方といえるでしょう。

行者堂