河内長野市観光協会

高野街道

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七里から六里地図

出合ノ辻

天見駅の南西方向に進むと「出合い橋」があり、この辺りを「出合ノ辻」と呼んでいます。いかにもロマンチックな名前ですが、じつは南北朝時代の古戦場で、正慶2年(1333年)の正月に、楠木正成が率いた南朝軍と北朝軍とが、この辻で出くわして、「安満見合戦」と呼ばれる激しい合戦が行われたことから地名となったものです。辻の近くには「河内国二十四箇所厄除地蔵霊場」の第2番目の地蔵堂がありますが、この地蔵堂の後方の小高い山中には五輪塔が立っていて、「王の塚」または「見方塚」とも呼ばれています。これは安満見合戦で戦死した楠木軍の名だたる将軍の墓と言われていて、戦死した南軍の将兵を弔うために、地蔵堂をつくり、地蔵菩薩をお祀りしたと伝えられています。信仰の道であるはずの高野街道も、南北朝時代には、兵馬が行き交う軍用道路として使用されるという時代もありました。

出合ノ辻

妙雲山 安明寺

真言宗御室派の寺院です。中村橋をわたって、東南約30メートルほどのところにあります。御本尊は阿弥陀如来で、両脇に不動明王と弘法大師像が祀られています。詳しい創建年代は不詳ですが、本堂の改修工事の際に、天井裏の柱に書かれた記録によって、江戸末期の弘化3年(1846年)に再建されたことが判明しました。本堂内には小さな仏像が十数体ほど安置されていますが、これは再建した当時に村人が高野山の仏師に依頼して彫刻してもらって、村人が高野山から仏像を背負って持ち帰ったという話が残っています。

蟹井神社

御祭神は神武天皇、応神天皇、神功皇后で、社伝によれば、初代天皇の神武天皇が東征した際に、紀ノ川を上って紀見峠にて紀の国を視察して、天見川の大石、小石を集めて、皇祖神の天津神を奉って戦勝を祈願した跡という伝承があります。天喜3年(1099年)8月19日に社殿が造立され、このあたりは甲斐の庄といわれていたことから、当初は「甲斐神社(かいじんじゃ)」と呼ばれていましたが、いつのまにか「蟹井神社(かにいじんじゃ)」に転訛したといわれています。また蟹井という名称の起こりは、天見川に「蟹井の渕」という深渕があって、ここから当社の御神体が出現したためという説などもあります。南北朝時代には南朝方、楠木方の武将が篤く崇敬して、戦勝祈願したといわれていますが、延宝2年(1676年)に焼失して、現在の社殿は、その頃に再建されたものです。明治5年(1872年)に村社に列して、明治41年(1908年)、岩瀬村の菅原神社を合祀して現在に至ります。秋祭りには、神輿が出て、前日の宵宮(10月9日)では、島の谷・見坂・茶屋出の各地から、高提灯の行列が、祇園囃子を歌いながら神社へ参拝する「提灯祭」を行います。

蟹井神社

紀見峠・六里石

河内国(大阪府)と紀伊国(和歌山県)の境で、標高は400メートル。眼下には橋本市の中心部、東南に山上岳の峰々、南西には目指すべき高野山を眺めることができます。眺望が素晴らしく、「よく紀の国を見える」ということから、「紀見峠」の地名の由来となりました。古来から様々な人々が往来した峠ですが、慶長19年(1614年)10月9日には、和歌山県九度山町に幽閉されていた名将・真田幸村が、監視の目を欺いて、決死の脱出行で、深夜の紀見峠から高野街道を北上して大坂城に入城したといわれています。江戸時代の慶安元年(1648年)に紀伊藩が伝馬所をもうけたことをきっかけに、人々が移住しはじめ、大坂屋、虎屋といった旅籠や茶店が軒を連ねて、1日に300人もの旅人が寝泊まりできる宿場町にまで発展しました。しかし、明治33年(1900年)に紀和鉄道(現・JR和歌山線)が開通、大正4年(1915年)には大阪高野鉄道(現・南海高野線)の紀見峠トンネルが完成すると、紀見峠を利用する高野山参詣者は激減してしまい、宿場町としての役割を終えました。六里石は、紀見峠を越えて、100メートルほど登った小道にひっそりと立っています。